「朝活、今日こそやろう」
そう思って始めても、3日で終わった。
「私って、ほんとに続かないな」って、また自己嫌悪。
ノートを買った日。
アプリを入れた日。
決意だけは強かったのに、気づけばやらなくなってた。
そしていつも、「ああ、三日坊主だ…」って
自分を責めるところから、1日が始まっていました。
「三日坊主って、そんなにダメなこと?」
何かを始めるとき、よく聞く言葉。
「三日坊主にならないように」
「どうせ続かないでしょ」
「まずは習慣化を目指しましょう」
でも思うんです。
三日坊主って、そんなにダメなことなんでしょうか?
むしろ、「三日間でもやれた」って、
それだけでもすごいことかもしれないのに、
なぜか「続かなかった=失敗」って決めつけてる自分がいる。
朝活も同じ。
「毎日続けなきゃ意味がない」と思っていた頃は、
三日坊主になるたびに、自分をどんどん嫌いになっていきました。
“続けられない自分”を責めるほど、やる気がなくなっていった
何か新しいことを始めるとき、
私は「続けられるかどうか」を一番に気にしていました。
「3日坊主で終わらないようにしなきゃ」
「やるって決めたからには、毎日やらないと」
そうやって、自分で自分にプレッシャーをかけていたんです。
始めるのは簡単。続かないたびに「またダメか」と落ち込んでいた
やる気があるときは、がんばれる。
でも、眠かったり、気分が乗らなかったり、
そんな日がくると、すぐにリズムが崩れてしまう。
すると決まって、
「やっぱり私、続かないんだな」
「また三日坊主か…」って、自分にガッカリする。
自己嫌悪→やる気低下→放置のループ
そして、「どうせまた途中でやめるんでしょ?」と自分に言ってしまう。
そこからはもう、やる気どころじゃなくて、
気づけば1週間、2週間と、朝活から遠ざかっていく。
「続けられなかったこと」じゃなく、
「自分を責めたこと」が、もっとしんどかった。
続かなくてもOKにしたら、むしろ戻りやすくなった
「毎日やらなきゃ」って思っていた頃は、
1日でも抜けたらもうダメだ、って思っていました。
だけどある日、ふとこう考えたんです。
「別に、今日また始めてもいいよね?」って。
「続ける」が目的になると、どんどん窮屈になる
習慣をつくること自体が目的になると、
“できなかった自分”を許せなくなる。
朝活も、ノートも、運動も。
本当は、やったほうが気分がいいことなのに、
「続けなきゃ」って気持ちが強すぎて、どこかで苦しくなってた。
“やりたいときに戻っていい”というルールに変えた
そこから私は、自分の中でルールを変えました。
- 続けるのが目的じゃない
- やりたくなったら、また始めればいい
- 三日坊主になったって、四日目からまたやればいい
そう思えるようになってから、
不思議と“戻るのが怖くなくなった”んです。
やめる自由もある。
でも、“いつでも戻れる”って思えると、
習慣ってもっと軽くなるんだと思いました。
私が決めた「三日坊主OKルール」
「続けられなかった」を怖がらずに、
また始められる自分でいたい。
そんな気持ちから、私は自分なりに“ゆるいルール”を作ってみました。
完璧じゃなくていい。だけど、気持ちよく朝を始めるために。
① 一度やめても、また思い出したときに始めればOK
途中でやめたら“終わり”じゃなくて、
「また始めるタイミングを待ってるだけ」だと考える。
昨日やってないから、今日もやらない──じゃなくて、
今日またやってみたくなったなら、それでいい。
② やらなかった日は、スルーして記録しない
やらなかった日は、いちいち“×”もつけません。
できた日だけ、〇がついていくイメージ。
空白が続いたとしても、それを“失敗の記録”にはしない。
記録は“続けるため”じゃなく、“振り返って励まされるため”のもの。
③ 続いた日より「戻れた日」を数える
10日続いたことより、
3日やらなかったあとに“また戻ってきた日”のほうが、大事。
「三日坊主のあと、4日目が来た」
そのほうが、自分にちょっとだけ誇らしくなれます。
三日坊主を何度くり返しても、それは“やめなかった”ということ
三日坊主になったとしても、
そこからまたやってみようと思えたら──
それってもう、「やめてない」ってことなんだと思います。
ちゃんと続かなくても、
何度休んでも、何度サボっても、
また戻れる場所があるって思えることの方が、ずっと大事。
だから私は、「三日坊主」って言葉に、
ちょっとだけ、やさしい意味を足すことにしました。
三日坊主になっても、また思い出せる自分。
それって、やめてないってことだよね。
今日また、始めてみようかなって思った朝が来たなら、
それはあなたが、自分をあきらめなかった証拠かもしれません。
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