朝やることが決まらない朝は、「なにもしない」でもいい

「朝活しよう」と思って目覚めたはずなのに、
何をするか決まらなくて、ただスマホを見て終わった朝。

「何か始めたい」と思ってたのに、
その“何か”が思いつかなくて、ぼんやり過ごしてしまった朝。

あの時間って、ちょっと罪悪感が残る。
「せっかく早起きしたのに」「また何もできなかった」って。

でも、あるとき私は思いました。
「何もしない朝があってもいいんじゃないか」って。

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「朝、何しよう…」と考えるだけで疲れてしまう

目覚ましの音で起きて、
「今日は何をしようかな」と頭の中であれこれ考える。

  • 運動?
  • ノート時間?
  • 副業作業?
  • 読書?ストレッチ?

選択肢が多いほど、
“ちゃんと選ばなきゃ”って気持ちが重くなる。

考えすぎて動けなくなって、
気づけば30分経ってる。

「私、朝からなにしてるんだろ…」
そう思った瞬間、1日のはじまりがちょっと嫌になる。

でもそれって、やる気がないからじゃなくて、
“選び疲れてるだけ”だったのかもしれません。

「朝は有効活用すべき」って、誰が決めたんだろう

SNSや本では、
「朝の時間を制する者が人生を制す」
「成功者は朝5時から動いている」なんて言葉があふれてますよね。

だから、朝に何もしなかった自分に、
どこかで「もったいないことをした」と思ってしまう。

やらないと罪悪感、やっても満足しない

「何かしなきゃ」と焦っちゃう。
でも、やっても「これでよかったのかな」とモヤモヤする。

結局、どんな朝でも自分を責めてしまって、
ちょっとずつ朝が苦手になっていく。

“朝の理想像”が、自分を縛っていた

「朝はこうあるべき」
「いい朝=充実してる」
そんな“理想の朝像”に縛られてたのかもしれない。

でも、その理想って本当に私のもの?

人によって違っていいはずの朝を、
勝手に「正解のかたち」に押し込めようとしてた。

“なにもしない朝”を、自分に許してみた

ある朝、「もう、なにもしたくないな」って思いました。
疲れていたのかもしれないし、
ただ、静かにしていたかったのかもしれません。

だからその日は、何もしない朝にしてみました。

布団の中でごろごろする、空を眺める、ただ座ってぼーっとする

起きて、窓だけ開けて、
あとはただ、空を眺めてた。

スマホも開かず、
誰とも話さず、
自分の呼吸の音だけが聞こえる時間。

何もしないけど、心は少しずつ整っていく感覚がありました。

「何もしない時間」が“整う時間”になることもある

行動しないと、朝が始まらないわけじゃない。
動かないことで、気持ちがやわらぐこともある。

「何かをしないと朝じゃない」って思い込んでたけど、
それはただの思い込みだった。

“なにもしない朝”を許したら、
朝が少しだけ、好きになれた気がしました。

“なにもしない朝”から生まれた、小さな変化

数日後、また「今日はなにもしたくないな」って朝がきました。
でもそのとき、不思議とこう思ったんです。

「じゃあ、とりあえず白湯だけ飲もうかな」って。

“何かしなきゃ”と無理やり動こうとしたときより、
自分の中から自然と何かが出てきた感じ。

「次はこれやってみようかな」が自然に出てきた

焦って何かをやろうとしない朝ほど、
「やってみたい」がじんわり湧いてくる。

ノートを開いてみたり、
昨日読んだ記事の続きを探してみたり。
全部、強制じゃなく“自分から出た動き”でした。

行動より“余白”の中にこそ、今の自分がいる

動くことだけが“いい朝”じゃなくて、
止まってるときに見えるものもある。

気持ちが置いてけぼりにならない朝。
そんな朝が続くと、自分のペースがちょっと分かってくるんです。

朝に正解なんてなくて、「今日は休む」があってもいい

SNSで見かける、誰かの充実した朝。
本で読んだ「成功する人の朝習慣」。
あれも素敵だけど、それが自分に合うとは限らない。

「朝はこうすべき」に縛られるより、
「今日は、休もう」と決められる自分でいたい。

それはサボりじゃなくて、自分を信じてあげる行動だと思うんです。

「今日は何もしない」って決めた朝にも、ちゃんと意味がある。

朝に正解はない。
でも、自分が少しだけ軽くなれる朝なら、
それは“その人にとっての正解の朝”だと思うんです。

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